オモウソラ

日々の想うことをつらつらと。 本家“想空”のミラーブログです。

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マシンのダイエット中で、フォルダ整理をしていたところ古いテキストがたくさん出てきました。
ほぼ二年前に書いた楊康(ようこう)についてのテキストが「神雕侠侶」の放送が始まった今見つかったのは何かの縁かもしれない、と思ったので残しておきます。

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「射雕英雄伝」の楊康は、漢民族でありながら女真族国家の王子として育ち、そのせいで母親とも恋人とも養父とも理解しあうことはできませんでした。楊康を主人公にしてもかなり厚みのある小説が1本書けるだろうと思うほど、彼はたくさんの面を持っています。

◆自分が何であるか
楊康が最後まで捨てられなかったもの、それは自分は自分であるという思いだったのではないでしょうか。生い立ちを知ってから彼は常にそれを悩みつづけました。
漢人でも女真人でもない、自分とは何なのか。
大海原に漂う1枚の葉のように、行くあてを失ってしまう。母は金を裏切り、恋人は自分に金を捨てろと言う。けれど愛情をかけてくれた養父を裏切ることは出来ない。たとえそれが自分の運命を狂わせた張本人だったとしても。
さまざまな思いに苛まれ、割り切ることなんてできるわけがないと苦しむ姿はとても人間的でさえあります。穆念慈との溝もそこにあったわけですが・・・
民族間の争いは簡単に線を引くことができない難しいものだということは、現代社会において最も重要な問題であることを思えば容易に想像することができます。
その重圧の中で彼が望んだのは心の安らぎだったのです。権力や名声への執着ももちろんあるでしょう。その間を彼は行ったり来たりしながら次第に暴走してしまいます。

◆楊康が欲しかったもの
幼い頃から母からの愛情を最も強く求めていたことから、彼が最も大切にしたかったのは愛されているという実感だったのだろうと思います。
自分の気持ちを返してくれる穆念慈との出会い。求めたものを手にするチャンスは何度もあったはずなのに、育ちからくるプライドの高さ、虚栄心が彼を翻弄し道を狂わせてしまった。何でも手に入る王子という立場にありながら、一番欲しかったものは最後まで手に入れられなかったのです。
物語中、念慈がしきりに民族が違うことにこだわるのに対し、彼はあまりそれに執着しません。
自分と念慈という個々の関係で見ています。同じく養父である完顏洪烈に対しても自分と養父という互いの存在のみで物事を見ていて、そこに他者から国同士の関係、民族の固執などを押し付けられ、彼はむしろそれを疎ましく思っているのです。
彼の目線は常に自分と相手という関係で、そんな彼に愛国心のない非情な人間であるとか、金国のために宋を裏切った売国奴なんていう評価はふさわしくなく、むしろ彼が金国の王子であるという身分が災いし、こうならざるを得なかった悲しい結果であったと私は思います。そして念慈との間に生まれた子は「過ちを改める」という意味を込めて楊過と名づけられることになったのです。

◆楊過と郭靖
彼の犯した過ちとは一体なんだったのでしょうか。
漢人に生まれ金国で育ったことは楊康自身が選んだことではないけれど、どちらの国も彼のルーツであることに代わりはなく、そのことを責めることはできません。
これは本作の主人公である郭靖にも同じことが言えます。
蒙古の将軍として宋を攻めないまでもサマルカンドを攻め、多くの人々を犠牲にしているのです。彼はそのことに悩み宋に戻りますが、郭靖という人間の土台には蒙古の文化が確かにあるのです。
二人は(育った環境にはかなり違いはありますが)同じ境遇であるのに、郭靖は大侠と呼ばれ楊康は売国奴と呼ばれた。この差は何でしょうか。
それは漢人の国である宋のために働いたか否かという一点に尽きるでしょう。同時に、彼らを理解しサポートしてくれるパートナーの存在も大きいと思います。
金庸が彼らのパートナーとして用意した人物はまったく逆のタイプの女性でした。
郭靖の恋人である黄蓉は小さな島で育ったために世間の常識に囚われない自由奔放な少女です。彼女はしばしば郭靖の考え方についていけないことがあります。
黄蓉を見ていると、楊康と似たタイプだと思うことがよくあります。固定観念に囚われないところ、個人の感情にとても素直で真っ直ぐなところはこの二人に共通している個性だと思います。
そして楊康の恋人となる穆念慈は、楊康の実の父親楊鉄心に養女として育てられた女性です。
義理堅く、そのために自身を犠牲にすることを厭わない。個人の感情よりも優先するものを持っています。楊康と衝突するのはこの部分です。そして郭靖も彼女と同じ性質を持っています。
そしてそれぞれの違いは、パートナーとの関わりでどう変化してきたか、変化できたかということでしょう。
郭靖は愚鈍と言われ続けますが、誰が自分を理解し大切にしてくれているかを感じることができる人。黄蓉も同じです。相手と歩み寄ることに躊躇しないからこの二人は理解しあえるのだと思います。
楊康も念慈も、相手に変化を望み自分が歩み寄ることを怖がっていました。その点でこの二人はとても似ているんですね。互いの境遇に共感するところも大いにあったのに、抱えている重荷を一人で背負い込んで。どうして理解しあえなかったのか…と。

もちろん彼のやったことをすべて正当化することはできないけれど。
宋のために金を捨てれば18年間自分が育ってきた国を裏切ることになり、それは自分を否定することになる。そうすれば彼のアイデンティティは失われてしまう。
文化を奪われ因習も捨てなくてはならなくなったとしたら、それは間違いなくその人の破綻を意味します。だから侵略国は植民地にそれを強い、そこに暮らす人々は反抗してきたのです。
彼は自分が自分であるためにも、こう生きるしかなかったのかもしれません。
ひっそりと鉄槍廟で息を引き取るとき、念慈と出逢った比武招親の日を心に浮かべながら彼は民族間の因縁から解き放たれただの人間になれたのだと思いたい。












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