オモウソラ

日々の想うことをつらつらと。 本家“想空”のミラーブログです。

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6日は広島の原爆記念日でした。
二年前の8/6は「青い空は」、昨年の8/6は「夾竹桃の歌」を書きました。
今年は何の歌を…と思いましたが、連日報道されていに靖国問題について等、、少し書いてみたいと思います。

まず。靖国神社というのは、どういう存在か。
明治時代、戊辰戦争で戦死した朝廷側の人間を慰霊するために明治天皇の意向により創建されたのが始まりです。
他の神社とは異なり、天皇や国家のために戦い亡くなった人々、西南戦争、日清戦争、日露戦争などで亡くなった人々が神として祀られています。この頃から死者の差別がありました。天皇に刃向かった人、たとえば西郷隆盛などは日本を思い戦ったにもかかわらず合祀から排除されています。さらには被差別部落出身の人たちも差別されました。
その後、日本が軍国主義へ傾倒していくにあたり、この神社の役割というのは精神的支柱、つまり日本人の心の象徴(天皇=神)のために命を賭して戦うという部分を担っていました。
天皇のため=日本のために戦い死した人を祀るための神社、ということです。ゆえに欧米諸国から「War shrine/戦争神社」と呼ばれている。
そこには日本人だけでなく、何万人もの台湾や韓国の人々も祀られています。
第二次大戦だけで言っても、ここは戦死した軍人しか祀られていないのです。原爆で亡くなった人、空襲で亡くなった人、軍人として戦地へ行っても病気で亡くなった人、などは祀られていないのです。
これらの人々は日本のために戦い命を落とした人々ではないのでしょうか?
当時は世界中が自国のために戦っていたはずです。日本中が日本の勝利を信じて苦しい日々を生きていたはずです。

祀られる魂に差別があることをどのくらいの人が知っているでしょうか。それも本人や遺族の思いは無視して勝手に決められるのです。
日本人の中にもここに祀られるのを拒む人もいるくらいです。無理やり戦争へ駆り出され亡くなった他国の人ならばなおさらでしょう。宗教の自由が認められている日本国にあって、どうして戦後は一宗教団体となったこの神社に祀らなければいけないのか。
ここに祀られているのは亡くなった人の魂であり遺骨は別にあるのだから、と言う人もいますが、そんな問題ではないと私は思うのです。

戦争に正しいも悪いもありません。勝者も敗者も、みんなが自分たちの正義のために戦っているのです。そして非道なのも当たり前。殺し合いに正道なんてない。
当時の日本は、日本の正義を持って戦っていました。
だからといって戦争を肯定するつもりなのではなく、むしろ私はこの神社にも戦争責任があると思っています。(現に、戦勝国による戦後処理の中でこの神社の今後について話し合いがなされたくらいです)
第二次大戦は自衛的戦争だった、という見解を持つ靖国神社に反感を持つ人がいるのは当然のこと。(中国、韓国がこの問題に口出しするのには別の意図があることも知っていますが)
一見、日本における靖国神社の存在というのは曖昧に置かれてるように見えますが、むしろその逆で、
「天皇陛下を中心に立派な日本をつくっていこうという大きな使命を持つ」
と言い切っている以上、この神社が戦時中、第二次大戦を肯定するために存在したものであることは明らかです。
天皇の名の下、国家神道の政策として、他宗教へ神札の強要、靖国参拝の強制等、従わなければ戦争に反対する非国民として投獄されました。その国家神道の頂点にあったのが靖国です。
圧力に屈してしまった人もいれば、戦争に反対し平和を訴え、獄中で戦い続けた人も、それにより亡くなった人もいます。
その人たちは日本のために命をかけた人ではないと?

東京裁判でA級戦犯とされた7名がこの場所に合祀された。
しかし戦争の責任は誰か特定の人だけにあるものではないのです。この7名をはじめ処刑された数百人の人々によって肩代わりされただけのこと。
ならば、私たちはその意味をしっかりと受け止め考えていかなくてはいけない。
二度と戦争はしないと宣言している国家として、この神社の存在をきちんと認識し、その上で決断されるべきだと思います。
靖国神社は戦争で亡くなった人々を悼むために存在している、というのが多くの見方かもしれません。でも、本来はそうではないのです。
本当に戦争犠牲者を悼むためならば、亡くなった人に差別なんてあり得ません。日本人だろうと、外国人だろうと、愛する国のため、家族のために戦い亡くなった人々みんなが大切に扱われるべきです。
戦死した人を遺族の意見も聞かずに勝手に選別する(この選別は第二次大戦前からありますが)靖国に祀るのはおかしい。

「二度と戦争をしない、という決意で、感謝の気持ちから戦没者に手を合わせるのだ」

と言うのなら、なぜ選ばれた人しか祀らない場所に参拝するのでしょうか。
戦争で亡くなった人は、靖国に祀られてる人だけではないはずでしょ?
私が納得できないのは、ここなのです。

靖国だけが槍玉にあげられる理由は、ここにあると思います。
確かに日本国内のことですので、他国から口出しされるのは私もいい気持ちはしません(その背景も含めて)。 だけど、当事者の日本人が、この神社の存在を曖昧にしてしまっているから突っ込まれるのです。
広島の長崎の記念式典で手を合わせることに非難を浴びせる人はいません。
年老いてなお、核の恐ろしさを語り続け平和を訴える被爆者たちの言葉に耳を傾ける人々が世界中にいます。この思いを未来へ伝えるために、私たち日本人が先頭に立たなくて誰が立つと言うのでしょうか。
日本人が日本を思い、日本のために働くことはごく当然のこと。それは家族を愛することだからです。同じ気持ちをどの国の人も持っています。
だからこそ互いを思いやれるし、大切にできる。そして衝突するのです。
生きている日本人の私たちが出来る最大の責任の取り方というのは「二度と戦争をしない」という意思を貫くこと以外にあり得ないと思うのです。

公人と言えど私人。確かに。しかし公的に参拝する、ということは日本国民を代表しているということです。ですから靖国ではダメなのです。
日本人の意見も真っ二つに分かれている現在、もっと活発に意見が交わされ、一人一人の認識を深めるチャンスなのです。
本当に責任を感じ、本当に戦没者への哀悼と感謝の思いを表するのならば、私たちは「二度と戦争をしない」ために、平和のために働く人々をもっと支援していくべきだと思う。
平和を願わない人なんて世界中のどこにもいないと信じてるから。家族を愛するように、友人を大切にするように、私たちには国と国の関係なんて軽く超えていける羽根を誰でもが持ってると、信じています。












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