オモウソラ

日々の想うことをつらつらと。 本家“想空”のミラーブログです。

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「さらば、わが愛 覇王別姫」…いわずと知れた張國榮(レスリー・チャン)はじめ、出演者・スタッフすべてにとっての代表作であり、おそらく中国映画の存在を大きく一歩、世界に知らしめた偉大な作品と言えるでしょう。
私はこの作品を見るたびに深く心に感じるものを噛みしめ、言葉にできない大きな感情に揺さぶられます。
何度も何度も、この作品について書こうとしては手が止まり、その繰り返しでなかなか書くことができません。
しかし、関西でレスリーを記念した素晴らしい映画祭が企画されていることもあり、各作品の紹介も兼ねてレスリーの演じた役について書いてみようと思いました。
蝶衣は一見とても繊細で複雑な人なんだけど、実はその糸をたぐっていくと元はシンプルな人なんじゃないか、って思っていて、うまくまとまった文章になるか心配ですが…書いてみたいと思います。
でも本当に言葉にするのは難しい。。。いまだにこれで言いたいことが書けているのか、悶々としたものがたくさん渦巻いています。


彼が京劇の世界に入ったのは、まだ幼い子どもの時。
女郎をしていた母に連れられて、京劇の師匠の元を訪れます。
ここで六本目の指を切断されるシーンは彼の人生を予見させるものになっており、(つまり男性であることを強制的に捨てさせられる)物語が始まります。
環境に馴染めない蝶衣にやさしく接してくれた石頭(後の小樓)を兄と慕う気持ちが次第に変化していくわけですが、蝶衣が大人になるまでの間に何度も男性であることを否定させられるシーンがあります。
そのたびに彼は実世界での男性として生きることが辛く、舞台上で女性として生きることに喜びを見出していくしか心の安定を保てなくなっていったのだと思う。
京劇の世界に激しく傾倒していったのは、彼の居場所はそこにしかなかったから。

私は、蝶衣の根本は男性だったんだと思っています。
女性としての感情は芝居として作られたもので、現実世界の辛さから逃げたいという心理から、それが実生活ににじみ出てしまったゆえのことだったのだと思います。
真ん中にある男性の感情は大きな圧力で押し沈められ、その上に重ねられた(舞台上の)女性の感情が蝶衣という人間を作っていた。だから、彼の感情・行動は不安定で時に女性であり、時に男性であったのではないか。
本当の自分を見ようとすると混乱する、ヒステリックになり阿片に逃げるしかなかった。本当の蝶衣を認めてくれる人が誰もいなかったから。
兄弟子は蝶衣を大事に思ってはいるけれど、彼の心の叫びを気づいてあげられるほどではなくて、むしろ菊仙の方が蝶衣を少しなりとも理解していたのかもしれない。
小樓を争ってる自分の愛と蝶衣の愛は、本質が違うことに菊仙は女だから気づいてたんじゃないかな。
蝶衣がそれに気づかなかったのは彼が女ではなかったから。

あの糾弾シーンのあと、菊仙は自殺し蝶衣は生き続けた。
燃え盛る炎の前で、自分たちの愛も人生も否定された二人が選んだ道は対極的です。
このシーンは見方によっては「覇王別姫」のラストシーンに重なります。
周囲を敵に囲まれ、愛する男を思い最後まで口をつぐみ死んでいく菊仙は虞姫のようです。
小樓にとっての虞姫は菊仙であり、蝶衣はどんなに小樓を思っても舞台の上でしか虞姫にはなれないのだということを暗示しているのではないか?
そして菊仙が死んだシーンはハッキリと描いているのに、なぜ蝶衣の時はぼかしているのか。
レスリーはあるインタビューで、菊仙の存在は蝶衣と小樓だけの物語ではいろいろな面で偏りが出てしまうので、バランスを取るために配置した、というような意味のことを言っていましたが、確かに蝶衣と菊仙の根本的な違いを対照的に見せていくために配されたのではないかと思います。

蝶衣が心から求めていたのは本当の自分を理解して愛してくれる誰かだったんだと思う。
それが男性であろうと女性であろうと構わない。彼は本当の自分に戻りたかったんじゃないだろうか。
だけど彼自身、そのことに気づかず(もしくは気づきたくないと背を向けていた)、ただひたすら京劇に傾倒したように、自分を守ってくれる小樓に憧れ焦がれていたんじゃないだろうか。もしかすると自分もそうありたかったという思いを重ねていたのかもしれない。

蝶衣を理解しようと思うと、心が苦しくて泣けてしまう。可哀想に、寂しかっただろうな。。。
ラストシーンについて、きっと見る人の数だけ解釈があると思います。蝶衣は命を絶ったのかもしれないし、そうでないかもしれない。

これは陳凱歌の言葉です。

「ある男が、舞台の上でしかほかの男への愛を叶えられないとしたら、どうなるのだろうか。
彼が芝居を人生そのものだと思わざるをえないとしたら?
彼は舞台の上でしか女になれない。
いやそれどころか、女に扮したときにしか救いを感じられないのだ。
だが、彼はやはり男なのである!

ところで、私の疑問はまだ残っている。
それは、男は男らしく男を愛せるか、と言うことだ。
私は、この物語で答えを探す。」

男性である蝶衣が選んだのは、女性の自分の死、を意味しているのではないか。
「男として生を受け」と何度も間違え、自分が女であるかのような錯覚を叩き込まれたけれども、ようやく自分自身とは何か、という思いに立ち向かえたんじゃないだろうか。
あの時は、長年引きずっていた思いに区切りをつけ、新しい光を追っていこうという笑顔だったんじゃないだろうか。
男性なのか女性なのか。
しかしその前に自分は自分自身である、ということを受け入れる。
蝶衣はようやくたどり着いた思いに、微笑んだんじゃないだろうか。
あの微笑から、死は終わりを意味するのではなく、出発を暗示しているように思えました。
“ひとたび微笑めば永遠の春が訪れ、ひとたび涙すれば永遠の悲しみが襲う”
蝶衣が剣を手にした二つのシーン。
一度は一筋の涙、一度はまっすぐな笑み。
悲劇の連続だった彼だけど、長い苦しみから解き放たれ微笑んだ蝶衣のもとに、ようやく春の芽が息吹いたのだと思いたい。

<男は男らしく男を愛せるか>
女性の殻を脱ぎ捨てて、本来の姿となった蝶衣はどんな愛で小樓をみつめるのだろう。













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